『二十日鼠と人間』を観劇したよってハナシ

 

どうも、初めまして。

このページは色々な体験、特にジャニーズに関わることについて記録として残しておくために立ち上げたものだ。

個人の感想と妄想とその他様々なものが入り混じるため、その点ご理解いただける方のみ読み進めていただきたい。

 

そして、この先、二十日鼠と人間』に関する舞台のネタバレが出てくる。

観劇をひかえている方は読まないことを強く勧めておきたい。

原作とは違う先入観は必要ないと私は考えるからだ。

どうか苦手だと感じた際には自己防衛を心がけてほしい。

 

 

 

 

 

これから下に書かれていることは観劇したその日の帰り道で興奮冷め切らぬ思いのままにメモしていたことです。

 

 

 

 

 

10月9日ついに迎えた初舞台鑑賞の日

そのストレートプレイ舞台は『二十日鼠と人間』主演三宅健だ。


彼のアイドル性に惹かれ、

追いかけていた私はついにアイドルでない彼に会いに行くことにしたのだ。


 制作披露記者会見で姿を現した彼は、土で顔を汚してはいたが、もとの彼らしい柔らかい物腰のアイドルだった。

小さな顔に整ったパーツ、スタイルの良さの際立つ細い身体、そのどれもが私の知っている三宅健だった。そうV6の三宅健だ。

 迎えた10月9日この日は私の誕生日でもあり、メンバー長野博の誕生日でもあった。
寒さと暖かさ、残暑と秋めく境目に立たされている気温の中、グローブ座にて舞台は開かれる。

 本人確認も厳しくなく、双眼鏡も自己申告制でコンサートと変わりない空気がロビーには流れていた。会場前の大きな看板に足を止め記念写真を訳もなく3枚以上同じような構図で撮り、グッズが売られていて、トイレに長蛇の列、なんら変わりない光景だ。
浮き立つ足元を隠すように舞台仕様のおめかしをした私は少しでも会場に馴染めていただろうか。確認するすべはないのだが、舞台ということもあり、確かに落ち着きが含まれた雰囲気だった。
お手洗いを済ませ、チケットの座席を確認済みなのに再度確認し、係員の指示に従い入場口を目指す。こじんまりながら精密につくられた会場に気分は高鳴る。

 

 入場扉はすんなり見つかり、二階席のため階段を上る。開かれた扉から見えたのは想像より遥かに近く感じるステージだった。二列目ではあるが、前の人の頭は気にならず、快適に観劇できる仕様に感謝した。ステージには予習バッチリなこの物語の風景が丁寧にそして必要最低限にそぎ落とされた形で姿を現していた。
日本の首都・東京の新大久保近く大都会に確かにジョージに生きる世界大恐慌下のアメリカが存在していた。

 無駄なく表現された世界は舞台初心者の私を物語のその地へと誘ってくれる。
開始直前を知らせるアナウンスと共に、生演奏の音合わせが始まる。生の舞台ならではの緊張感が心地よく伝わり、会場全体が開演を待ち望む。

紡がれる演奏と徐々に深みを増す暗闇。


 ここはもう物語の中だった。

砂漠をさすらうジョージとレニー。三宅健が姿を見せた。心はふわりと宙を舞い、久しぶりに生の姿を見られたことに歓喜した。

 しかし、台詞を発した瞬間から、彼はもう私の知る三宅健ではなくなっていた。確かに彼はジョージでレニーとの関係性は完璧に出来上がっていた。信頼しきり、長年連れ添った彼らの空気感は本物だった。

 声もまるで違う、言葉遣いも、表情も、驚くほどジョージだった。言葉が変であるが、あの物語のジョージがここにいるのだ。

レニーにしても甘ったれで頭が良くなく、レニーそのものだった。レニーを責めるジョージは本気で、むしゃくしゃしており、頭にきていた。その怒りが伝わり、さらにレニーのどうしようもない気持ちも深く伝わってくる。

 ジョージの気持ちも分かるし、レニーにも感情移入してしまうのが舞台の不思議なところだ。川の水はしっかりと再現され、リアルな水音に、衣装や役者の濡れ方に作り物でないことを連想させる。さらにジョージのつかうナイフは缶詰を切断し、川辺の水草まで切り落とす。レニーの顔元まで近づくナイフにドキドキし、ジョージの心情の切実さを物語る。

 

 登場人物は少なく、決まったメンバーで構成されるこの舞台は、役者一人一人の演技力の高さ、声の震わせ方、仕草の1つ1つにまで息が吹き込まれている。

声を張り、体を揺らし、会場の空気を震わせる。特に男性の怒鳴り声や叫びが多く登場するこの舞台では、レニーのどうしようもない運命と能力の、その狭間で彼は苦しみ、もがき、心を痛める。そんな‘つもり‘じゃなかった、わざとじゃない、そんな悲痛な声は聞き手に同情と親近感の種を蒔く。彼の痛みが共鳴し、弱い部分を呼び起こしその自分に涙を流すのだ。

 

 彼らはただ純粋に夢を信じ、憧れ続け、追い求めていた。小さな夢の中に自由で笑顔な自分がいる。制限されて、利用されて、そんな自分じゃないのだ。自分が自分らしく当たり前に生きられる日々を待ち焦がれていた。

 そして、そんなささやかな夢をぶち壊す‘めんどう’が彼らを襲う。
子犬の時からずっと連れ添った老犬を仲間に撃ち殺されたキャンディ。
彼はジョージに自分で撃つべきだったと口にする。どうしたって殺される、消されるなら、自分の手でやってやるべきだったと。そう語るキャンディに原作の時では気が付けなかった重さを感じた。

 スリムにもらった子犬をかわいがっていたが、殺めてしまうレニー。「ジョージはきっと怒る」と、子犬を殺めてしまったことなんてなんともない顔をしてジョージの事ばかり考えるレニーが本当に見事で、一種の恐怖を感じずにはいられなかった。

カーリーの妻と夢について互いに言い合うとき、すれ違う感情と、かみ合わない会話に、どちらも滑稽に思えてきて同時に切なくもなるのだ。夢物語でしかないのに、と。

さらに加速していき佳境に突入していく。レニーの興味が意図しない感情を伝達し、カーリーの妻はレニーへの恐怖に支配される。怖い、大男の腕が、声が、そのすべてが怖くなってしまった。恐怖から助けを求める叫び声を出したのがレニーにとっては嫌だった。声に気づいたらジョージが怒るんだ、ジョージが、ジョージに、だから止めてくれ、やめて、やめろ、ジョージが怒るから…。パニックに陥るレニーの声が、恐怖に支配されたカーリーの妻の叫び声が、会場に心に響き渡った。耳をふさぎたくなるそれが悲しみと痛みを連れてきた。

動かなくなった彼女にレニーは、何を感じたのだろう。

痛みを罪悪感を感じたのだろうか。ジョージの言葉を思い出すレニー。”めんどう”が起こったら、あの川辺に隠れていろという言葉を彼は覚えていた。切ない物語はこのままある意味の喪失感を抱え進んでいく。

 

 カーリーの妻の死体を見つけ、あの日見つけた夢をなくしたキャンディの言葉が苦しく響く。あの穏やかな口調がくるりと姿を変えたのだ。彼女を罵倒する声に夢への強い憧れが傷口から血が流れるように、客席まで流れ伝わってくる。

妻の死を知ったカーリーに言われ、みながレニーを探すことになる。それも痛めつける武器をもって。

追い詰められていくジョージとレニー。

 ジョージは友であるレニーの背後に回る。夢について切ない声を響かせながら語るジョージ。夢がどんなに儚くて壊れやすいものか知らないレニーは嬉々として話を急かす。「なあ、ジョージ、話してよ」そうだ、そうだ。さあ、夢の続きを見よう。これ以上、この世界にいることは出来ないから。

レニーに銃を向けるジョージの顔は苦しさに歪み、レニーの痛みまで請け負うように心をえぐられているようだった。

痛くない、一発でいける後頭部を、痛みに苦しむ腹部は避けたジョージ。夢を語り、苦悩も身体がちぎられるような切なさも請け負ったジョージ。
カールソンからあらかじめ銃を盗んでいたジョージ。誰よりもレニーのそばにいたジョージ。「一緒にいてほしいよ」震える声で口にしたジョージ。彼の半分は、いや、もっとずっと多くの部分はレニーだった。レニーのために存在していた。彼のその後は原作にも舞台にも描かれていない。キャンディの未来も、農場のその先も描かれていない。それは各々の想像で作られていくのだろう。

 

 私は、舞台中にあるキャンディの提案から夢が実際に叶うかもしれない幻想が現実に変わる瞬間のジョージがとても印象的だった。夢みたいにな展開に喜びに震える姿だ。あそこには多くの愛おしさがあるのだ。そう、この舞台はジョージはレニーは愛おしさを与えてくれる。そして、人間というものの強さと脆さが鮮明に描かれていた。
愛情と友情と愛おしさと憎しみと苦しみ。入り混じる感情が濁りなく表現される、そこに舞台の醍醐味はあるのではないか。生ものだからこそ伝わるものは必ずある。ブラウン管を通しちゃ意味を持たないものがあるのではないかと思った。

まだこの舞台は千秋楽まで長い。多少のぎごちなさも、台詞間違えも解消され、千秋楽ではさらにリアルなジョージたちに会えるだろう。できることならみたいものだ。

そして、どうか千秋楽まで無事に走りきることができますように。